マレーシアで会社を経営する元コンサル29歳の人生物語/ 水面下で奮闘する僕の軌跡

マレーシア 会社経営者 1988年生まれ(黄金世代)29歳。 虎視眈々とビジネスを広げたいと思います。

経歴を紹介しようかな(第2回)

大学の時サッカーを辞めてからは、紆余曲折。ギャンブルもしたし、歌舞伎町で働いて悪い人ともつるんだし、土下座したり、韓国人マフィアみたいな人接客してタクシー停めてチップもらったりしてた。

 

歌舞伎町で働きながら、学費を何とか工面した。結構大変だった。

 

 

 

大学4年の後期は、とうとう学費が払えなかった。

最後の最後で、足りなかった。学務課から除籍通知が家にも実家にも来たが、だれもどうにもできなかった。

 

お金を貸してくれとプライドを捨てて頭を下げて回った。なかなか貸してくれなかった。

世の中甘くないし、人とはそういうものなんだと感じた。

友だちは何人かは減ったかもしれない。

 

 

そんな中一人がお金を貸してくれた。

 

研究室の教授だった。

 

物腰やわらかいおばあちゃん先生で、研究生は俺だけだった。

(他の研究室を追い出されたため)

 

 

もうどうにもならない状況だったので、結構荒れていて久しぶりに大学に行くと、おばあちゃん先生が、優しい笑顔でぽんと封筒を置いた。

 

セブンイレブンの封筒だった。

 

おや?と思い、中をあけると、50万円入っていた。

 

 

 

 

 

これは結構衝撃的だった。

 

そもそも教授と金のやりとりなんか考えたこともなかった。

 

 

いつもと変わらず、優しい笑顔で一言言われた。

 

 

 

「ここまで頑張ってきたんだから、卒業はしなさいね。」

 

 

 

神様はいるんですね。

 

涙は枯れていたつもりでしたが、久しぶりに泣きました。

おばあちゃん先生も一緒に泣いていました。

 

泣きながら学務課に行ってそのまま払った。

 

この出来事は一生忘れないと思う。

 

 

返さなくていいからと言われたけど、そのあと何とか死ぬ気で稼いで、卒業時に返した。

 

そして、入社1年目の最初の給料で、少しですが、招待して恩返しをしました。 

 

 

こんな出来事もあって、俺は二つの自分が生まれた。

①自分に優しくしてくれる人間は、自分が強くなって守れる人間になる。

 

②同世代のすねかじり虫たちには絶対負けない。

 

 

 

そんなこんなで今に至っているわけです。

 

結論、負けるわけにはいかんのですよ。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

経歴を紹介しようかな(第1回)

 

 

こんばんは。

 

森彬矩です。(もりあきのり

 

 

このブログは、知る人ぞ知るブログを目指していきたいなと思います。

 

 

なんか方向性も決まっていないブログですが、徐々にジョジョに奇妙な物語にしていきます。

 

徐々に特徴を決めたブログにしていこうかなと。

 

 

 

2回目の今回は、簡単な経歴を書く。 

 

 

僕は、宮城県仙台市で3人兄弟の末っ子で生まれ、幼稚園時代を過ごした。

小学校から高校まで鹿児島で育った。

それはもう本当にサッカーしかしていなかった。

基本的に、周りに比べると努力もしていたからか小中高と基本的には常に早いところでレギュラーで中心でやっていたと思う。

 

身長がものすごく小さかった。まじで。

中3で155cmだったのは覚えている。今は177cm。お金もめちゃくちゃかけて伸ばす努力もしたし、小さいながらに戦う術を知っていたし、めちゃくちゃコンプレックスだったけど、伸びたら怪物になるであろう自分を信じて疑わなかった。

 

それでも、中学くらいで、自分よりも下手なやつらに体格で負けて、ある程度悔しい思いは経験した。

ただ、今だけだと言い聞かせて、結構練習した。結果、背は予想通り伸びた。背が伸びてからは基本的には負けなくなった。

 

それでも上には上がいて、目標が消えることはなかった。

 

高校は、中途半端に県でベスト4で負けて、大学に進学。関東に出たかったから、関東1部リーグで、サッカー強いところで、某東京の大学に入学。

 

1年目はサッカー漬けの日々。大変だったけど、楽しかった。

やはり関東に出ると、また上手い選手もごろごろいて、刺激的だった。

 

2年目になるときに、サッカーをやめた。

理由は2つ。

 

 

1つは、自分の実力を判断してのこと。

 

スポーツに関しては、やっぱりセンスみたいのはあるのかな。

昔から、サッカー選手になることが夢だったし、大学に入ってからも、どのくらい努力すればどのくらいになれるかはある程度把握していた。

プロまでの距離もある程度分かっていたし、続けていたらどうなっていたかはわからん。

ただ、冷静に判断をして、プロになることを目標にしたらなれるけど、そこそこで終わることがある程度自分の実力を見て分かった。

 

性格もあって、世界一とかにならないとあまり意味はないし、プロになることが目標というわけでもなかったので、これは悩んだ。

 

二つ目は、ありきたりだけど、家庭が困窮していた。切に。

基本的には地方は貧乏で、うちも貧乏で、ただ、なんとか一人大学に行かせたいとのことで、末っ子の俺だけ大学に進んだ。

 

ただ、学費もあるし、一人暮らしだし、奨学金は借りていたけど、部費もばかにならない額だったので、家族は応援はしてくれていたけど、中途半端になるなら、辞めようと決意。こちらの方が理由としては大きい。

 

俺は母親が好きだ、で、結構前から、母親が働いていた。今も働いている。61歳かな?親父は何をしているか分かりませんw

 

高校のとき、更年期障害うつ病を発症していた。風呂上がりの髪の毛を上げている母親の後頭部に10cmくらいのハゲがあったのを見てショックだったのを今でも覚えている。

 

そういう意味では、金には非常にシビアだ。これは完全に環境が作った。

 

今でも小さい金は入れているけど、1万でも多く稼いで、母親に仕送りがしたい。

まずは、それだけだ。

 

そのうえで、世の中にインパクトを与えたい。これは三国志を読んで、中華統一を目指すロマンを感じたのが、小学校4年の時。

なるなら、サッカーでは、世界一。これはビジネスに切り替わっても世界一だ。

 

登る山は常に頂上。

 

そんな中今はビジネス界の大きな山を必死に登っている最中である。

 

次回はもうちょっと掘り下げる

 

森彬矩(もりあきのり)26歳ビジネスマンの徒然なるままに

こんばんは。

森彬矩です。もりあきのりって読みます。

親父がつけてくれました。

26歳の鹿児島県民。

鹿児島は島津斉彬の、彬をもらっています。

東京でビジネスマンをやっています。

今は、割とがちで夢とロマンを持って世の中にインパクト与えるべく事業を展開しています。

これからいろんなことをブログでつぶやいていこうかなと思います。

東京では割と知られてきましたが、実態はまだまだ謎でしょう!

次回は、経歴でも紹介します。